ようやく終わりました。
校正が終わりました。
出版社がある三崎町
父の会社も三崎町にありました。
ご縁があるのかな、と思いました。
原稿を送って私の役目は終わりです。
うまいと言われなくていいと思えるようになったのは、ヘタだと言われなくなってからです。
レコード大賞は決して頂点ではない、それは通過点にしかすぎないんです。そこを通らないと、大物にはなれない。
1991年11月NHK BS2
今日、届きました。
沖縄のライブで、歌い直しに遭遇した記者さん
でもね、歌い直すのは、ファンにとってはラッキーなんですよ、とお知らせしました。
私のコメントを入れる予定が
「批判するなら、協力できません」と私が言ったので
「今回は、ご要望とは違うので載せません」と連絡をいただきました。でも、ちゃんとその週刊誌を送ってきていただきました。
実は、ジュリーファン、みたいでした!
武道館にぜひ来て下さいと連絡しました。
思えば、今年のお正月に、風邪で熱があるのにヨドバシカメラで写真を撮ってもらった事が始まりだった。
この時、NHKの記者さんに撮っていいですか?と言われ何だかわからず大丈夫です、と。
それが山岸さんの紹介のビデオで使われた。(NHK教育テレビ)
3月に読売新聞の永峰さんから連絡をもらい、取材を受け、5月に夕刊に連載。
それを見た同級生が青弓社に話を持ち込み、出版の話になった。
さらにさらに、ジュリーがドタキャンしたおかげで何故か私の元へフジテレビ、バイキングからオファー。サンジャポ、あさチャンなど。
ほとぼりが冷めた頃、今度は週刊朝日からの依頼。
ラスト?には週刊文春。
ジュリー命50年
沢田研二の世界というホームページを立ち上げて20年 LIBERTYという会報発行が500号越え
おまけに、代替え公演が2月7日、私の誕生日にやるなんて❣️
なるようにしかならない人生。
ま、そういう一年だった、という事かな。
國府田 公子(著)
四六判 300ページ 並製
定価 1800円+税
ISBN978-4-7872-7419-9 C0073
書店発売予定日 2019年01月31日
登録日 2018年12月12日
沢田研二――グループサウンズ、ザ・タイガースのボーカルで熱狂的なファンを獲得。「勝手にしやがれ」など次々にヒット作を出してトップアイドルに。70歳代に入ったいまもライブを重ね、ファンを魅了している。
そのジュリーを追いかけて50年。地方のファンクラブ支部長から始まり、月刊の会報「LIBERTY」は500号を突破、ウェブサイト「沢田研二の世界」の掲示板とブログを毎日更新。ファン同士の交流の場にもなっている。
ジュリーの半世紀の活動を一冊に濃縮。GS時代から独立してソロに、そしてライブを続ける現在までのコンサート評、テレビドラマや映画などの映像の情報はもちろん、雑誌の記事までももらさずに手際よくまとめる。
これが沢田研二だ!
自ら、さいたまスーパーアリーナと口にするジュリー。
傑作は、大晦日に大物プロデューサーが、格闘技の君が代をジュリーに歌わせようと言う話があったとか。
しかも、さいたまスーパーアリーナで。
場内大爆笑。
凄いよね、あのドタキャンを、ジュリーもファンも一緒に笑い飛ばしているんだもん。
いつか、きっと仇討ちする、と宣言。
頼もしいジュリーでした。
丸の内線で帰宅してます。
週刊文春
先週、文春の記者からその後のジュリーについて話を聞きたいと連絡がありました。
ありのままの話をし、「どんな記事になるのか。もし批判的な記事なら協力は出来ない」と伝えたら
「ドタキャン以降の様子を知りたい、小さい記事にする。」と。
私の話を載せて良いかと聞かれ
「Kとでもしてください」
「でも、週刊朝日には名乗ったでしょ?」
「じゃあ、名前を載せても構いません」
そこで話は終わっていました。
26日発行だと聞いていました。
ところが17日、突然、電話があり
実は沖縄でライブを見たが、あまり調子が良くなく、それを記事にするが、批判的な記事ならダメと私が言ったので、今回は載せません、と言う報告でした。
わざわざ、沖縄へ?と思い電話を切ったあとで聞いてみると、リアルタイムではないが、ジュリーのファンだ、と言う。鈴木清順監督の話や、『太陽を盗んだ男』が良かったなど返事がありました。
憶測や想像だけでなく、ちゃんと自分で取材し、その相手のことを理解している事に、当たり前だけれど記者の誠意を感じました。
まだ記事は見ていませんが、風邪をひいたジュリーの様子が書かれているのでしょう。
それをあえて取り上げて言う事ではない、と私は思います。が、記者であれば普通のことより、特殊な事を書くのが商売でしょう。
万全な状態のジュリーのライブを見て、改めて感想を書いて欲しいと、私は思います。
『タカハシさん、ぜひ、武道館の千秋楽にお越しください。』
【12月下旬または1月上旬発送予定】
●1月19日:日本武道館公演~1月21日:日本武道館公演を単独でお申込の方
●1月19日:日本武道館公演~1月21日:日本武道館公演を複数公演お申込の方
●11月18日:京都公演または11月28日:葛飾公演から
日本武道館公演へ変更になった方
1977年のレコード大賞は♩勝手にしやがれ
その時の視聴率が最高視聴率だった。
だからね、ジュリーだから。
紅白の最高視聴率もジュリーが初出場した年だし
今で言うところの~
『視聴率男』ならぬ
視聴率ジジイ!だ!
9年はこのまま行くでしょうが、70歳からが辛いでしょう。
困ったらデナーショーをやります。人に聞いたら、70分やる、という。
『私の人生を70分で語れると思いますか?』 芸能界でいじめられたら(というような意味でしたが)辞めてやるもん、辞めたって年金で生きていけるから、と。
長いことやっていると同じ場所で2日間やると、2日目の反応が違うので同じところで続けてやるのはやめようか、と思うとか。
TVに出ていないと、歌っていないと思われる。
武道館で、ドームで歌う事、レコード大賞を取ること、それが夢? そうじゃない、僕は歌を歌いたい、と。(武道館もドームも、レコード大賞も歌謡大賞も取ったジュリーだから言える言葉ですね)
それなら、地道にコンサートをやっていればいい。困ったら日本だけじゃなく、外国に行けばいい。『韓国へ行った事がないんです、逆韓流です。台湾にも行ったことがない。』
昔は、客席は静かでした。愛想の悪いこの男は、何か言うと『うるさい、黙れ』と叫んでいたから、と笑わせました。
これは私としては大ウケしました。まさにそうでした。
何かしゃべって、それに反応すると『うるさい』と怒鳴っていましたから、何も言えない客席でした。
『最近は、私も大人になった』とのジュリーが続けると、これも爆笑してしまいました。
TVに出ていなくても、愛想が悪くでも客席が満員になる。それで天狗になっていると言って ジュリーは客席を笑わせました。笑い話にしてしまうけれど、あの頃は怖かったのです。
柴山和彦さん、和さんとはつきあいが一番長くなった。
リハーサル初日には、全て覚えてきてくれる。
宴会の仕切りもしてくれる。
孝之さんにょりも、吉田建さんよりも付き合いが長くなった。
♪勝手にしやがれは、ホストがコンセプトにあったが、当時のホストは差別用語のようなものだった。で、黄色のスーツにピンホールのタイピン。気障だった。気に障った。
この頃、みんなカメラを見ないから、全編カメラ目線にしたんです、カメラ目線は僕が初めてです。
3台くらいのカメラ割りを覚えて、目線を送った。
仮縫いの時、早川タケジに帽子を投げる、と言うと反対をしたが、パナマ帽を脱いだままにしてアンダースローで投げたらうまくいった。
カメラに向けて投げるからテレビを見ている人は自分のところに投げられると思ってのけぞるだろう、悪評だったらやめる、と言っていたのに、
他のテレビ局に行くと、『どのカメラに投げますか?』と聞いてくるから、この歌詞の時に投げます、と。
公開録音の時にも客席に向かって投げ、終わったらマネージャーが取りに行った。
パナマのボルサリーノは高かった、3つくらいありましたが。起死回生をはかった。
レコード大賞を貰い、歌謡大賞を貰い、紅白に出場した。イケイケですよ。
♪いくつかの場面というアルバム、この時結婚したんですねえ、比叡山で。
阿久悠さんと初めてあって、『悪魔のようなあいつ』の企画書には、レコード大賞を取る、と書いてありました。
強烈な詩を書く人だなあ、僕には合わないなあ、と思っていました。
加門良が歌う曲であって、沢田研二の曲だと思っていなかったが篠ひろ子さんが
『沢田さん、この曲、いい曲ですね』と言ってくれて、そういう人(綺麗な人)に言われると、 そうかな、と思った。
ドラマの中では口パクでギターも他の人の音。
事件を起こして、しかも2回目で謹慎したので・・・。
久世さんのドラマのわりには視聴率は良くなかったけれど、この曲は売れました。
DVDを見たら、上半身裸でラブシーンばかり。
だから視聴率が取れなかったのかな。
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